漢文読解の手引き(主に学部生向け)

    「漢文の読解はどうやって勉強すればよいのか」という質問を受けることがたまにあります。研究対象の時代や分野に拘らず、漢文読解は日本思想史を研究する上で欠かすことの出来ない技術だと言ってよいでしょう。院生に面と向かって質問しなくとも、「もっとちゃんと漢文が読解できるようになりたい」と考えている人は他にもいるでしょうから、以下に私の考える漢文読解の上達法について書き綴ってみたいと思います。

    高校漢文(受験漢文)

    文法・句形

    読書会などでは、漢文法の基本である事項について「このくらいのことは高校漢文(受験漢文)だ」と言われることがあります。意味は「皆さんは高校で漢文を学び、大学受験で漢文も選択したはずなのだから、このくらいのことは理解していて当然だ」ということであり、どうしても「低級、不十分」といったニュアンスを伴ってしまいます。しかし同時に、「この字句の読解方法は高校漢文で十分だ、何ら問題ない」という意味で「これは高校漢文でよい」と言われることもあります。大学受験のための漢文とは大学に入ってからの研究に必要な漢文でもあるわけですから、高校漢文だってそんなに莫迦にしたものではないのです。特に漢文が非常に苦手な人、高校漢文をすっかり忘れてしまった人は、まず高校漢文からお浚いしてみるのもよいかも知れません。

    とはいえ、高校漢文はあくまで「お浚い」として利用すべきものであり、もし大学生にもなって現役の受験生に負けないくらい受験漢文を勉強しようとするのであれば、それは本末転倒も甚だしいでしょう。何故ならば、受験漢文とは@「持ち込み不可の試験会場で」、A「限られた試験時間内に」、B「非常に特殊な文法も完璧に」読解できるようにするためのものです。しかし大学での、というより普通の漢文読解とは、@「辞典や文法書を好きなだけ参照して」、A「本人が時間を掛けたいなら掛けられるだけ掛けて」取り組むべきものです。またBにしても、完璧を期すること自体は同じなのですが、しかし「非常に稀な用例を殊更に取り上げ、強いて複数の競争者間に優劣を設けることを目的としていない」というところが大きく異なります。漢文読解とは本来、必要最低限の文法などを理解しておき、分からないところはいくらでも辞書や参考書で調べてよいのです。

    漢文が苦手だからといってすぐに『入試頻出 漢文《語と句形》』(桐原書店)などに趨る人をたまに見掛けますが、やはりこれは殆んど意味がないと思います。確かにこの本は受験漢文の定番ですし、管理人も受験生時代に買って読んだ記憶があります。しかし本来の漢文読解においては、語や文法が分からなければ辞書や文法書を引くべきなのであって、このような諳記帳に頼るということはそれだけ辞書や文法書から遠ざかるということに他なりません。それでは本当に受験漢文だけで漢文読解をしていこうという愚を犯すことになってしまいます。

    内容把握

    また、そもそも漢文読解において一番重要なのは対句や比喩など、漢文に独特の論理展開と文章表現のパターンに慣れ親しむことです。所謂「御伽噺」に「正直者は得をし、不正直者は損をする」といったパターンがあるように、漢文にもある程度パターンがあります。もちろん、漢文は子供向けの「御伽噺」よりもずっと複雑で、しかもずっと多様であるため例外も少なくありませんが、しかし全くパターンが分からないまま漢文をきちんと読解することはまず不可能だと思います。読書会で学部生の作ったレジュメの現代語訳文を見ると、原文や訓読文を見なくても「あ、ここが間違っているな」と分かる箇所が少なくありません。そういった箇所は前後で文意が通じないことはもちろんですが、そもそも「漢文でこういう表現、論理展開はしないだろうな」というものもあり、逆に言えばそういったパターンをきちんと把握さえしておけばミスを最小限にすることができます。

    受験生の頃を思い出してもらえば分かるでしょうが、受験漢文の問題集には当然設問があり、ただ漫然と漢文を読むのではなく、ある程度の緊張感を伴います。またその設問も「この文章において著者が主張したいことを説明せよ」「この文章の内容に当て嵌まらないものを次の選択肢の中から選べ」などが多く、個別の文法だけでなく文章全体の把握にも重点が置かれています。「解説」では文章の論理展開や個々の表現、文法について「読者」でなく「読解の学習者」向けに解説してくれています。ですから、受験漢文の問題集を解くことによって漢文のパターンに慣れ親しみ、受験生の頃の読解の勘を取り戻すというのも一計でしょう。ただし、繰り返しになりますがそれによって十分な読解力が身に付くなどということは全くなく、あくまでお浚いのためリハビリのためであれば有効だというまでです。そこの所を間違えないでください。

    前置きが長くなりましたが、管理人の考える、お浚いのために利用してもよい受験漢文の問題集とは次のようなものです。

    これらの条件を充たしていれば何でもよいのですが、管理人のオススメとしては『漢文道場 入門から実戦まで』(Z会)を挙げておきましょう。Amazonマーケットプレイスでは200円くらい(送料・手数料別)で出品されています。

    ただし、やはり繰り返しになりますが、この「受験漢文でお浚い」というのは、本当に漢文が苦手で自信のない人のためのものです。「幾らなんでも自分にはそこまでは必要ない」と思うのでしたら、無理にお浚いする必要はありません。そういう人にとっては時間とヤル気の無駄になってしまうだけでしょう。また、実際に『漢文道場』などの問題集を解くにしても、すべての設問に指示通り答えなくても結構です。「この箇所は受験漢文でしか役に立たないな」と思ったら読み飛ばしてよいですし、「内容を100字以内で要約せよ」という設問に答えるのが面倒でしたら箇条書きで答えるだけでも、紙に書かずに頭の中で内容を整理するだけでも構いません。その代わり、自分の回答の正誤確認だけでなく、「解説」や「講評」の方をしっかり読むようにしてください。

    漢文法書

    漢文読解に漢和辞典が必要不可欠であることは今更言うまでもないでしょうが、加えて漢文法書もあればあった方がよいです。ただ、必携というわけでもないでしょうし、これだけ読んでいれば漢文読解が上達するというわけでもありません。そもそも、漢和辞典が個々の漢字とそれを使った句形などについて個々に解説するのに対して、文法書は文法を体系立てて解説するので、体系立てて理解するにはやはり文法書は便利です。とはいえ、文法書は通読しようとしても退屈で長続きしないことがありますし、経験に裏打ちされないただ覚えるだけの読書はやはり諳記にしかならず、既に述べたように「クソ諳記」は読解の上達に繋がりませんので、あまりオススメできません。そのため、文法書は後述するように実際に漢文を読みながら、あるいはある程度漢文が読めるようになってから適宜参照するようにした方がよいのではないかと思います。

    では、どんな文法書がよいのかということになると、管理人は殆んど文法書に目を通したことがありませんので、ここでは取り敢えず西田太一郎『漢文法要説』と、加地伸行『漢文法基礎 本当にわかる漢文入門 』(未読)を挙げるに止めておきます。別にこれらでなくとも構いませんが、何かよい文法書が一冊手許にあると読解上達の助けになるでしょう。ただし、あくまで「助け」であって「特効薬」ではありません

    四書(岩波文庫版)

    さて、以上述べ来たったような「高校漢文」だの「文法書」だのといったものは、所詮は読解訓練の「下準備」と「補助手段」に過ぎません。「実戦に勝る訓練はない」というように、実際に漢文を読むことこそが最善の読解力向上法です。文法書などに載っているような短い「例文」を幾ら読んだところで、漢文読解の本当の実力は身に付かないと思います。というのも、研究のための漢文読解では一文一文だけでなく文章全体の内容や構造もきちんと把握しなければならず、また精読だけでなく多読も求められるからです。授業や読者会の場合であればただ自分が割り当てられた範囲の漢文を読めばよいだけかも知れませんが、研究の場合はより多くの漢文に目を通してその中から自分の研究に関連する箇所を捜し出さなければなりません。短い例文に慣れきってしまえば、ちょっと長い漢文を読んだだけで息切れしてしまうことになり、とても実際の研究では役に立ちません。かといって、まだちゃんと漢文が読めていないうちから多読しようとしては読み方が雑になってしまいどうにもなりませんので、徐々に一度に読む分量を多くし、読む早さを上げていけばよいのですが、文法書などの短い例文ではそれが出来ません。

    話がやや遠回しになりましたが、それでは何を読めばよいのかというと、やはり古典、それもここでオススメしたいのは岩波文庫版の四書(『論語』『孟子』『大学』『中庸』)です。まず、四書がよい理由については以下の通りです。

    続いて、岩波文庫版を用いるとよい理由は次の通りです。

    なお、四書を読み進める順番は『大学』→『中庸』→『論語』→『孟子』がよいと思います。朱子は『大学』→『論語』→『孟子』→『中庸』がよいとしましたが、岩波文庫版ですと『大学』『中庸』が1冊に纏まっていますし、仮に『論語』や『孟子』で挫折した場合、『大学』だけ読んで『中庸』を読まないままになってしまうというのは避けたい所です。特に『孟子』は一章当りの分量が多いので、なるべく最後に持ってきた方がよいと思います。

    管理人は学部時代に四書を通読しましたが、結局1年以上掛かったように記憶しています。自分独りで黙々と読み進めるのはかなり大変ですので、四書を枕元に置いておいて、毎晩寝る前に少しずつ読み進めるなどの工夫をしてみてください。その代わり、通読し終えた時には間違いなく漢文読解の実力と自信が付いている筈です。

    小川環樹・西田太一郎『漢文入門』

    漢文読解の入門書としては、小川環樹・西田太一郎『漢文入門』(岩波書店、1957)が有名であり、また定評もあります。ただ、管理人はこの本を書店で手に取って覗いたことくらいしかありませんが、初学者にはあまりオススメできないのではないかと思います。というのも、

    などがその理由です。もう少し詳しく説明しますと、そもそも「漢文が読める」とは「白文が読める」ということでなければならず、予め付された訓点に頼っているようでは本当の読解力が身に付きません。とはいえ、他方では「まず訓点付きの漢文に十分慣れてから、然る後に白文読解に臨めばよい」という考え方も有り得るでしょうし、管理人もそれは一理あると思います。しかしながら、それにしては『漢文入門』は余りに難解かつ大部であると言わざるを得ません。この本を書名通り漢文読解の入門書とするならば、これを読み切ったとしても、その後改めて四書などの古典を通読するだけの時間も気力も残らないのではないでしょうか。

    また、「漢文の寄せ集め」を読むことにどれほどの効用があるのか、管理人には少なからず疑問です。色々な性格の書物に触れることは勿論有益ですが、たった10行程度の文章を読んだだけではその書物の性格を十分に理解することは出来ないでしょう。もしそれが出来ないとすれば、そういった「寄せ集め」を通読することはただの乱読にしかならず、労多くして功少ないのではないでしょうか。管理人はこの『漢文入門』にきちんと目を通したことがないので断言できませんが、ただ、何となく最近流行の『あらすじで読む○○の名著』のような嫌らしさを覚えてしまうのです。勿論、『漢文入門』は1957年の初版以来半世紀も読み継がれている名著であり、管理人の批判はただの印象論でしかないのですが。

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