漢文読解の注意点(主に学部生向け)

    ここでは大雑把な「漢文の読み方」でなく、読書会などでの漢文講読においてどのようにして漢文を読むべきか、更に限定すれば「どのようにして訓読文・現代語訳文を作るべきか」について解説します。すべての読書会における漢文講読は、各人に特定のテキストの特定の箇所を精読させレジュメを作らせることによって、幅広い漢文読解力を養成すること、及びそれを互いに確認しあうことを目的としています。それと同様に、ここでもまた「訓読文・現代語訳文の作り方」を通して、管理人が漢文読解の要領と考えているものの一端を明らかにできれば幸いです。

    辞典を引け

    訓読・現代語訳に共通していえるのは、「とにかくこまめに漢和辞典を引け」ということです。特に学部2、3年生くらいの初学者は、担当範囲内のすべての漢字を一つ残らず辞書で引いてください。これは物の喩えや誇張ではありません。漢文読解を上達させたいのであれば、本当にそうしてください。これは学部生や初学者に限ったことではありませんが、本来漢文読解における誤読とは、どれも漢和辞典をちゃんと引いてちゃんと読んでさえいれば避けられる筈のものばかりです。『大漢和辞典』や『漢語大詞典』にしか載っていないような特殊な意味・用例も勿論ありますが、しかし殆んどは『新字源』などでもちゃんと解説されています。

    「大事な字や難しい字だけを引いて、そうじゃない字は引かなくてもいいだろう」と考える人もいるかも知れません。熟練者は勿論それで構いませんが、しかし初学者が何故未熟かというと、それは「どれが大事な字なのか、難しい字なのか、そしてどの字がそうじゃないのか」の区別が付かないからこそ未熟なのです。簡単な字ほど誤読し易いということもあります。また、これは絶対に勘違いしないで欲しいところですが、漢文において「誤読してもよい字」などは一つも存在しません。「誤読しやすい字」や「複数の意味が考えられて一つに決し難い字」はありますが、それでも誤読してよいということではないのです。

    能動か受動か

    漢文では、能動か受動かを「於」などの有無や文脈だけで判断しなければならない場合があります。高校漢文の文法書では「受動の場合、『被』『見』『所』などの助動詞が付くか、或いは『為A所B』(AのBする所と為る)の句形になる」と解説したりしていますが、必ずしもそうとは限りません。例えば、「労心者治人、労力者治於人。治於人者食人、治人者食於人。天下之通義也」(『孟子』滕文公章句上)という文は「心を労する者は人を治め、力を労する者は人に治めらる。人に治めらるる者は人を食(やしな)ひ、人を治むる者は人に食はる。天下の通義なり」と訓読します。論旨は明瞭であり、現代語訳文は必要ないでしょう。このように綺麗な対句になっていればまだ分かり易いのですが、『荀子』仲尼篇の「是持寵処位、終身不厭之術也」(是れ寵を持して位に処(を)り、終身厭はれざるの術なり)などはもう文脈で判断するしかありません。

    また、この『疑殆録』の出典でもある『論語』為政第二「子張学干禄」章の一部「多聞闕疑、慎言其餘、則寡尤。多見闕殆、慎行其餘、則寡悔」は、普通「……則ち尤(とが)め寡し。……則ち悔い寡し」と訓読します。ただし、もし敢て「則ち……こと寡し」と読むのであれば、その場合は「則ち尤めらるること寡し。……則ち悔ゆること寡し」としなければなりません。少なくとも現代語訳文ではそう訳してください。「尤むること寡し」ではありません。そのため文脈には細心の注意を払い、柔軟に読解するようにしてください。

    なお、漢文訓読では原則として主語の後の「は」「が」を省略して「鳥飛ぶ」「水流る」などと表現します。このことと、現代日本口語で目的語の前の「を」を省略して「あれ取る」「これ読む」などと表現することを混同しているのか何なのか、漢文訓読で目的語の前の「を」を省略して「学好む」「衣求む」などとする学部生がたまにいますが、これは間違いですので止めてください。とにかく省略しておけば漢文訓読っぽくなる、ということはありません

    自動か他動か

    漢文では、ある動作や変化についてそれが自然なのか作為なのか、内発なのか外発なのかということを非常に問題にします。漢文に限らず、「Aがこれを得る」と「これをAに与える」とで意味が違ってくることはどの言語でも同様でしょうが、漢文では殊にこの種の違いを重視します。例えば、『大学』には「身修而後家斉、家斉而後国治」とありますが、これを、直前に「欲治其国者、先斉其家。欲斉其家者、先修其身」とあるのに引き摺られて「身を修めて後に家を斉(ととの)へ、家を斉へて後に国を治む」と読んでしまったら、文法としてはもとより、文意からしても大間違いになってしまいます。ここはあくまで「その国や家を治めたいと思ったら、外側から力ずくでなく、必ず内側から自然と治まるようにしなければならない」という意味なのですから。「結果は大体同じことになるんだから、別にどっちだっていいだろう」などとは間違っても考えずに、訓読でも現代語訳でも原文の語順と文脈に気を付けて読解してください。

    また、日本語では使役のような意味の他動詞として読まない字も、漢文ではその一字だけでそう読んだ方がよいことがあります。例えば、「服従」を動詞として読む場合、「(主語が目的語に)服従する」という意味が真っ先に思い浮かぶでしょうが、しかしこれは「(目的語を主語に)服従させる」という意味になる場合もあります。しかも『戦国策』秦五の「勝而不驕、故能服世。約而不忿、故能従鄰」などのように、「服」にも「従」にもそれぞれ一字だけで「目的語を主語に……させる」という意味・用法もあり、端から決めて掛かるわけにはいきません。これらは、丁度日本語でも、「従える」が「従わせる」という使役のような意味を帯びるのと似たことなのでしょう(多分)。

    ただし使役のような意味として読解すべきかどうかは文脈で判断するしかありません。もし使役のような意味で読解する場合は、勿論下二段活用の「を服/従(したが)ふ」(したがえる)と読んでもよいのですが、これだと四段活用の「に服/従(したが)ふ」(したがう)と終止形が同じで混同し易いので、「使」「令」などの助動詞がなくとも「を服せしむ」「を従はしむ」などと訓読して構いません。少なくとも現代語訳する時はそういった主客関係に注意してください。

    前出の「治於人者食人、治人者食於人」に行き当たった時も、「『人を食べる』『人に食べられる』じゃ意味が変だな」という所に気付くのは当然としても、その後ちゃんと「もしかして『食べさせる』って意味なのかな。だとしたら『食』の字に『やしなふ』って訓があるんじゃないかな」という所まで思い至らなければなりません。

    訓読

    仮名遣い

    漢文訓読文には必ず正仮名遣い(旧仮名遣い、歴史的仮名遣い)を用います。そのため、正仮名遣いはただ読めるだけでなく、完璧に書き熟せるようになっていてください。正仮名遣いの習得法としては、高校生の頃に使っていたような薄い古語の文法書を読むのもよいですが、文法を頭で覚えるよりもとにかく読んで慣れ親しんでいった方がよいでしょう。ちゃんとした正仮名遣いと漢文訓読体で書かれていれば、近世以前でなく明治初期くらいのものでも構いません。

    ちなみに何故正仮名遣いでなければならないかというと、「訓読法が正仮名遣いを前提に発達してきたから」「旧い漢文の訓読には旧い仮名遣いを用いるべきだから」などの理由がまず思い浮かぶでしょうが、それだけでなく、「俗仮名遣い(現代仮名遣い)は日本語の表記方法として不完全だから」ということも大きな理由です。

    送り仮名

    送り仮名とは普通「活用語」にだけ付けるものですが、訓読文の場合、複数の読み方がある字句には、読み方が特定できるように出来るだけ送り仮名を振ってください。市販の全集や文庫などの訓読文は、読み易さを考慮し、現代日本語と同様に送り仮名を最小限にしているものが殆んどではあります。しかし、読書会などでのレジュメは読み易さも勿論大事ですが、それだけでなく「この訓読文の原文はどのようなものだったのか」という再現し易さも重視して、くどいくらいに送り仮名を振ることになっています。「之(こ)れ」などのように代名詞にまで送り仮名を振るのは、最初奇異に感じられるかも知れませんが、一度慣れてしまえば非常に読み難さや煩わしさは感じなくなるでしょう。

    原文 以是 是以 是人 如是 為是
    訓読文 是(こ)れを以て 是(こ)こを以て 是(こ)の人 是(か)くの如し 是(ぜ)と為す
    現代語訳文
    (あくまで一例)
    これを
    これによって
    このため この人 このようだ 正しいとする

    このように、殆んどの字句は送り仮名を振ることによって、その読み方だけでなく品詞や意味までも特定することが出来ます。ただ、そうはいってもやはり例外はあるもので、中でも厄介なのは「自」の字です。「自から」と送り仮名を振っただけでは、一体「自(みづ)から」なのか「自(おのづ)から」なのか分かりません。こういった場合はルビを振ってどちらなのかハッキリさせるとよいでしょう。なるべく送り仮名だけで表示させるべきですが、それで無理があればルビを振るのも一向に構いません。

    「開く」

    原文の漢字を訓読して平仮名で表記することを、一般に「開く」といいます。何を開き、何を開くべきでないかにはある程度規則があります。

    以上でその規則の大よそを蔽ったつもりですが、管理人がそのつもりになっているだけで何か書き漏らしていることがあるかも知れませんので、一応注意してください。

    時制

    そのうち。

    参考文献

    古田島洋介「漢文訓読における送り仮名――体系的説明の試み――」、『明星大学研究紀要(日本文化学部・言語文化学科)』13、2005。
    CiNiiにおいて全文閲覧可。オススメ!!! 漢文訓読における送り仮名の振り方、及び慣習として用いることになっている語彙、語法、文法についても幅広くかつ詳細に解説している。僅か25ページの論文ながらも簡にして要を得、謂うなれば「痒い所に手が届いて」おり、そこいらの文法書よりもよほど親切便利。この論文は通読し、全ページを印刷して手許に置いておくとよい。
    古田島洋介『これならわかる返り点――入門から応用まで―― 』、新典社、2009。
    帯には「漢文の苦手な人必読!」とありますが、得意な人も十分参照するに足る本です。管理人も連続符合の使い方などについて蒙を啓かれました。筆者は同書について反省の辞を述べているようです(未実見)が、その価値を減ずるものではないでしょう。
    古田島洋介・湯城吉信『漢文訓読入門』(明治書院、2011)。
     
    古田島洋介『日本近代史を学ぶための文語文入門』(吉川弘文館、2013)。
     

    現代語訳

    そのうち。

    inserted by FC2 system